雨季のムンバイを歩くという事は、うんこ水に浸る、ということだ
最近インドに初めて来た人が、ムンバイの雨季における道路の冠水状況について驚いて(ひいて)いた。
特に街を自ら歩くときの嫌悪感が半端ないらしい。
そこらじゅうで避けられない水たまりがあり、そして避けられないがゆえに足を水浸しにして歩かないといけないからだ。
自分はもうなんとも思わなくなっているので、ズブズブ歩いていたら「うんこ水じゃん、それ!!汚い!!」とのこと。
うんこ水!!
そっかぁ、そんなに汚いかぁ、ムンバイの地面の水は。
まぁ、そう言われてみれば、ムンバイは都市部であっても平気で道端に犬やら牛やら(人間やら!?)のうんこが落ちている。
その辺であふれている雨水は、確実に道端のそういったうんこやらなんやらかんやら汚いものもごちゃまぜになっているであろう。
下水も整っていないところが多く、臭いエリアや、道端もある。
なにやらそういうものまで逆流してそうだよね、と言われれば、いやいやそんなことないさ!とは言えない自分がいる。
インドにいると色んなことに不感症になっていく。
適当な人間への対応にも慣れるし、ハエがたかる飯もちょっとぐらい気にもしなくなるし、雨の日はじゃぶじゃぶ水に足を付けて歩けるようにもなる。
不感症と言うなら聞こえは悪いが、人としてのキャパシティがあがった、と捉えることもできるかもしれない。
ただ、自分は、うんこ水があふれる道路を気にもせず歩けるようになったことが、良い事なのか悪い事なのか、もはやさっぱりわからない。
人の幸せは人ぞれぞれだけど、うんこ水の中を歩けるようになりたい、などとは少なくとも思っていなかった。
ただただ、順応しただけだ。
ルーラルの村に家庭訪問した経験がある。
家族は基本裸足。
家はほこりだらけ。
普段自分たちが寝ている、きしんでよれよれのベッドを指して、座って、と笑顔で進めてくれる。
(富裕層でなく、家が狭いインド人は、よくベッドにお客さんを座らせる。おもてなしとして、だ。何か悪い気になる。日本人はイヤだよね、知らない人が外から来てそのままベッドに腰掛けたりしたら。)
子供は硬い床に、布をひいて寝ているという。
この布が擦り切れていて失礼ながら汚い。
それでもこの家はトイレがあったのでマシな家だ。
インドではいまだ6億人以上の人々がトイレの無い環境で暮らしている。
そのトイレを借りると、暗く、床はおしっこか何かわらかんが、とにかく嫌な感じで濡れている。
思わずソックスを脱いで、その和式もどき風のトイレで用を足させてもらった。
そういう経験をしていくと色々なこれまでの自分の中の価値観における前提条件が崩れていく。
彼らはこの環境が日常だし、ここで笑顔で暮らしている。
彼らの日常に触れることで、望もうが、望まなかろうが、どんどんこれまでの自分の当たり前が壊れていく。
ふと、雨宿りをしていたスーパーの軒先。
雨でできた水たまりで、子供が映画の俳優のように楽しそうにクルクル回って遊んでいた。
ほほえましく、とてもピュアな光景だと思った。
でもこれは見る人が見ると、うんこ水の中で遊んで汚い、と映るということだ。
今日も、明日も、必要とあらば、自分はうんこ水の中を、足を濡らして進む。